コミュニケーション能力というものが、「自分の意見をはっきり言う」とか「目をキラキラさせて人の話を聞く」ということでなく、その能力とは、コミュニケーションを円滑に進める力ではなく、コミュニケーションが不調に陥ったときに、そこから抜け出すための能力であると言われている。それが難しい。
人間間の不調は各人のそれまでの知識、経験値が衝突している場面であることが多いからである。自己のこれまでの経験知を破るところまでいかなくても、それが相対的であることを自覚することがなければ、自分が思い込んでいる知識なり、自己が良いと自分が包まれている、社会の良識なり常識と思われている枠組みを踏み越える事ができない。
その枠組みなり、自己の経験値はどうして出来たのであろうか?
その1つ1つを歴史的に肉体的にまず一人で考えてみよう。
人の受け入りなり、幼い時の先生、祖父母の言いつけなりを思い起こしてみよう。いずれも大したことがない。その疑問視をした上で他者、歴史上の偉人、言葉との出会いを求めてみよう。少しだけ何かが見えてくると思われる。それこそ本当の自己発見への旅ではないだろうか?!
そうしたら面白くなり、本当に自己肯定感が持てることになるものと思われる。そしてついに、自己のコミュニケーション能力が元々自分には、非常に少ないという現実を確知できる。それこそコミュニケーション能力の出発点に立てることになるのであろう。
人間生きてこそ損もするし、病気にもなれる。貧乏も出来る。
色と欲とは人間の一番大事な裏道具である。
令和6年8月31日 廣田 稔