人類の再生産の維持が、人間の生きる目標である。
その再生産維持に必要な資質は不快に耐え、不快を快楽に読み替えてしまう自己詐術の能力であって快楽を享受する能力ではない。
その能力のある個体だけが、そのDNAを次代に還すことが出来る。そして私達はこの淘汰圧に耐えて生き残った人間であり、勝者であると言われている。勝ち負けの判断は勿論自己決定できるものではない。
不快な隣人、すなわち他者と共生する能力こそおそらく根源的な意味において、人間を人間たらしめている条件なのである。
他者と共生する能力こそ生きる指針であり、喜びである。
又、墓を作るのは人間の世界だけであるし、そうすることによって死者とだってコミュニケートできるというのが人間の定義である。
以上の事を学問の中で理解して体得すべきである。
デジタルコミュニケーションの致命的な難点は「自分が知っているもの」しか注文できないことである。
大学なり研究者における学問は学生が「すでに知っていること」にピンポイントしてそれを量的に拡大する教育を行うのか?学生達が「まだ知らないこと」にピンポイントしてそれを欲望するように仕向ける教育を行うのか?
直感的に識別する前―知性的な能力が今の日本には皆無の様な気がするのは、何故だろうか?
生きることの意味は何か?今一度考えてみよう。
私達の人生はある意味で一種の物語をして展開している。私はいわば私という物語の読者である。
今生きつつある人間関係がどれほど複雑で、どれほどものごとの現れが錯綜していても、起きつつある事件がどれほど不可解であっても「死んだ後の私」を想定しうる私にとって、それは生きる経験の愉悦を増しこそすれそれを減殺するものではない。
今の若い人たちに欠けているのは生きる意欲ではなく実は「死への覚悟」なのである。生きることの意味が身にしみないのは、「死ぬことの意味」について考える習慣を失ってしまったからである。
死ぬことへの意味についての想像力だけが人生を輝かすのである。
令和5年12月16日 廣田 稔