五代友厚が当時のジョン・ロック、トマス・ホッブズ、ジャンジャック・ルソーの近代市民社会論を知り体得し、その後、それに向かって進んで行くという姿を映画創りの中で楽しんだ。
しかし、その思想の根本にあるのは「人の身になってみると、みんな結局はわかりあえる」という理想主義的な人間観である。そこからは「共感と理解の共同体」はうまれないことは、その後の歴史が証明している。
人間はみな同じで賢いものであろうか?人間がみな同じであると思うと、自分とは価値観、度量衡で計量している人、違う分節で世界を見ている人の事がわからなくなってくる。そして未開人を幼稚に見てしまう。
その事から、西郷さんの朝鮮出兵論が出てきている。それこそ自文化中心主義と言われるものである。
その自文化中心主義が基でアメリカングローバルスタンダードの格付けは成り立っている。 そして、朝鮮戦争で550万人、ベトナム戦争で200万人死亡した。
その事を批判したのが、かのニーチェである。大衆は他人の真似をして、他人と同じように行動し、感じ、他人と共感しあうことを喜びと感じてしまう奴隷であると。しかしそのニーチェの大衆嫌悪、超人思想の考えはその後、ナチス時代に利用されている。
社会理論には賞味期限がある。超歴史的に普遍的に妥当する社会理論なんか存在していない。むしろそんなもの(普遍的な倫理規定も)は存在しないということを思い知った人だけに始めて倫理(他者)と出会うチャンスが訪れるのである。
生体と死体との間に死者がいるのである。
「死者がいる」とは不思議な言葉である。死んでいる者がいるというのである。死者については死者を思うことで少しは倫理の理解についての糸口に立つと言われる。わからないものは、わからないなりに「宙吊り」にしてみよう。謙抑的に自己の意識についても宙吊りとすることだけはAIには出来ず人間の知性だけができることである。
令和5年10月末日 廣田 稔