今や国民国家が国民をも適切に代表することが出来なくなっている。
国民国家という装置以上の政治のあり方を発見することなくその言葉を発する資格があるのだろうか?
国民国家はウエストファリア条約から今まで350年以上も持ちこたえた。
でも、それはいくつかの歴史的条件がそろって成立した政治的擬制である。条件が必須である。
なんとかファーストと称して地域主義が蔓延している。
政治家や官僚たちが公共のためよりも私利私欲や私的エネルギーの実現に夢中になっていて、公共への信用供与をする国民を見捨ている。政府も市民もどちらも公共を信頼し、公共に資源を託すことを嫌がり始めた。グローバリズムに対するに対するアンチではあるが、グローバリズムの補正としては働いていない。
正義とか政治的正しさという言葉は相手を過剰に攻撃する時の道具としてしか使えない政治家が多すぎる。正義か過剰に正義と言い放つ害毒ははかりしれない。自己の正義感、政治的思想を自己目的化してわずかでも自分の意見に反する人、同調しない人を断罪するだけでは百害あって一利もない。まずは共苦の涙を持って抱きしめてみようではないか!
「全員の善良でかつ賢明でなければ回らないような社会制度設計が間違っている。」
全員が利己的にふるまっていては共同体は成り立たない。皆でいや、自分一人であっても頑張って「大人」になって、愉快に気分よくその「身銭を切る仕事」としてそれが本当に自分の中にある神発見の旅であって人生を唯一、自己肯定しうる生き方であって楽しんだよと子供たちに話し、そして子供たちとともに生きてみよう。
そしてそれぞれで人生の物語を作り出して「柔らかい、和やかで、もっと厚みのある複雑な気づかいを示してみよう。」(内田樹の2017年4月22日のブログから)
周りの人たちと「同胞」と感じることができ、その人たちのためだったら「身銭を切ってもいい。」と思えるようなそういう手触りの温かい共同体を作るよう今、私達に悩んでみよと五代友厚と三浦春馬は我々に言い残していると感じている。
令和5年7月25日 天神祭 廣 田 稔