人間が「落ち目」になるのは、単に金がないとか健康状態が悪いというような理由からではない。これからどう生きればよいかわからなくなった時である。
「日本スゴイ」キャンペーンや「クールジャパン」幻想をテレビでみて他国との悪いところと比較して国民に観せるだけでは国民の公的なものは全く育たない。
だからといって道徳教育を強化することは正しくない。正しいのは何であるかと日本の近代史を国民皆で自由闊達に議論をやることでしか「公的なものなり人間の生きる指針」が生じることはありえない。
グローバルマインドとは「世界各地の人がともに協力する意欲、探求心、学ぶことへの謙虚さ」であると言うが自分にそんなことが出来るであろうか?
年老いているから尚更である。今からでも良い「やりたくないけれど、やると食えそうだから」といった小賢しい算盤を弾かないで「学びたいことを学ぶ」「身に付けたい技術を身に付ける」ようと心がけてゆっくりでも良いから進んでみよう。
生きる知恵と力を最大化しておかないと良く死を向えられない気がして不安である。死を迎い入れる準備はどうすべきであるか?
自由という言葉すら外国からの借り物である。
自由がないと言って騒ぐことは余り日本人的でない。日本人は自由より調和のうちに安らぐことを大切にしてきた文化があるのである。それを今一度見直してみよう。
しかし日本に独裁制を許してはならない。
独裁制というのはヒットラーのことばかりではない。法の判定者(国会)と法の執行者(行政、首長)が同一機関である政体のことである。立法府の空洞化を阻止できると知恵を出すべきである。公共のために!その公共は所与のものではない。公共は私人の自己犠牲と信用供与によって創り出されるものである。
我々は日本や生まれ故郷に対して物静かな敬意や控えめな誇りをもつことが出来るようになるまで目ざめる必要が大である。
その目ざめがない限り、人口減、縮む国力を直すことはできないであろう。
令和5年5月10日
廣 田 稔