社会主義経済が崩壊して資本主義になったのはシステムのせいではなく、人間理解の不足のせいである。
民主国家の崩壊の危機も昨今言われるが民主国家の思想がホップスやロックの様なイギリスの近代社会理論家たちが「人間は、他人の身になって考えることができる」という考えを前提にしていることを忘れてはならない。
人間は「畜群」に陥るとニーチェが言っていた。
人間は他人の身になって考えるべきである。そうでないと民主国家は実現しないのである。考えるべきであるということは大衆が倫理観を共に持つよう努力すべしという警鐘である。それなくして民主国家は守れない。
倫理と言えば、共同的に生きてゆく上でもっとも合理性の高い生き方であると私たちの祖先は名づけた。
倫理とは「共同体の規範」「人々がともに生きるための条理」のことである。
我々一人一人が民主国家の恩恵を受けるためには、倫理感なり、他人の身になって考える必要がある。それなくしては独裁政治に戻ってしまう。
他人の身になって考えるには人間の想像力を磨く必要がある。想像力とは「現実には見たことも聞いたこともないもの」を思い描く力である。そのためには自分がいま見ているものは(いかなる名言も聖句も法理論も)「見せられているもの」ではないのか?自分が想像できるものは「想像可能なものとして制度的に与えられているもの」ではないかという疑念を抱き、そのフレーム(自己のそれまでの知識、経験の)の外部に向けて必死にあがき出ようとする志向が必要である。
自己の考えの貧しさと限界を知り、あがくことこそ人間理解の基本である。
人間が自己肯定できる唯一の方途である。
その上で「人間は死ねるから幸福なのだ」という事実を基にして死んだ後の私をあらゆる時に想定してみよう。そのことで時間の経過をかなり先取りしているし、死への覚悟が持てる筈である。
死への覚悟なしでは生は生じない。
死への覚悟は、いつだって死んでやる、死ぬことなんか怖くないということとは全く違う。自分を殺すのと死ぬということは全く違う。自分を殺す人間は、殺した後も無傷で生き延びるつもりでいる。先述した人間の想像力欠如である。
令和4年12月末日
廣 田 稔