春馬の立ち姿なり、写真は人の哀愁をそそるものがある。死と対置した人間の弱さ、母や春の夢実現の報告ができなかった悲しみ、最後の春馬の涙の中に春馬は今尚、生きている。死中有生である。
その顔なり立ち姿は決して個人的なものではない。自分の悲しさは他者の悲しみを取り入れてのそれであって、それ以外のものではない。自分の姿の中に他者を取り入れている生き方の美しい姿である。
春馬が映画に出る時、決して自分発のものではなく先行世代が継承し、次代に贈るものを覚知してそれを伝える役割ですと考え、謙抑的な生き方が観て取れる、だから美しいのである。単に容姿良いというだけではない。
それは倫語に「述べて作らず」という言葉につながっている。
春馬は「私は先賢がすでに語ったことを述べてるにすぎず、そこに私のオリジナルな知見は含まれません」と思っている。だから天外者を観るたびに我々は涙するのである。
それこそ春馬の真なる芸術的創造性である。そしてその美的価値を通して多くの人を癒し励ましてくれるものである。よって春馬の写真や立ち姿の複製や頒布に経済的な利益を独占したいという個人的動機から肖像権の制限を加えるということは、それこそ美しいものではない。
春馬は我々に「人間性とは何か?問い、そして限られた時間の中でしか生きることが出来ないから人間は幸福なのだ」と人類学的問いかけをしているような気がする。
令和4年11月22日 廣 田 稔