今の政府が主導している「地方創生」という言葉に惑わされてはなりません。無住地化の拡大という現象を「どうやってビジネスチャンスにつなげるか」という観点からしか考えていないからであります。
自然の恵みを受け取って、自然に畏敬と感謝の念を持って接する。そしてそこで生業を営むとは全く思っていません。
自然もビジネスに使えばいいと思っているので、自然破壊を厭わないのです。
農業も二毛作に戻して無理に大きく合理化しようとせずにしておいてそして、その上で大正時代の町並みに戻しましょう!小商いのお店を作りましょう!
「米屋、よろず屋、酒屋、豆腐屋、うどん屋、呉服屋、洗物屋、魚屋、材木屋、水工場、風呂屋等々生活必需品は小商いのお店で賄ないましょう」
大きなモールとか大きな工場を建設しても地方は活性化しません。地方創生は人口減少対策にはなりません。住民が少数であってもコミュニティーときちんと作って、相互支援する体制が整備されていれば集落は維持されます。世界各地の集落、小さな集落を維持していくことでしか、地球の環境は守れません。それは我々人類の歩むべき道であるし、人類史的なミッションです。そしてその範囲内で生きていきましょう。
ところで、皆さん相互支援とする気持ちを育んでいますか?自己中となって他人を批判していませんか?自己責任、自己決定という自立主義的生活規範は正しいものではありません。それはかえって「自我の縮小」「自我の純化」につながります。縮小する自我にとっては配偶者も子供も親も隣人も上司も部下もすべて「自己実現、自分らしさの発揮を阻む」他者となってしまいます。更に縮小する自我は自分自身の凡庸さ、体の不調、病気までも自己実現を阻む他者と思ってしまいます。自分の一部分であるのに、否定してしまいがちです。時には自分をまるごと否定しています。それは「未来の私(自分)」を自我として考慮していないからであります。そうして自我の縮小、純化は自殺をも起こしかねません。生きている自分より死んだ自分がより自分らしい自分と曲解してしまいます。正に自己意識の転倒であります。
自我というのは他者とのかかわりの中で、環境の変化を変数として取り込みつつ、そのつど解体しては再構築されるある種の「流れのよどみ」のようなものであります。これは人間の常識であり、大切な生きる指針であります。
令和4年11月14日 廣 田 稔