いま我々は、人生の価値を資金の多さ権力の有無、豊かな情報占有以外のもので感じることができるであろうか?いま、ここわたしだけで判断したのではその解すら見出しえない。
葬礼は穢れを排除するためにあるものではない。穢れは二毛作の毛の毛枯れ=畑に作物が実らない状態を指す。
穢れという概念は他の動物は持たない。動物の中で人間としての名誉を保つためには穢れとの共生の仕方も体得する必要がある。死者たちは、「私達は何のために生きているのか?」と問いかけてくる。そこで始めて、人間は自己の人生を見つめ直す機会を得ることが出来る。死者は「モノ」ではなく他者である。この他者という言葉を自己のものとして理解しようとする人間だけが、交換、分業、欲望、言語を創出できる。
人間は他者を感知し欲望する能力を持っている。これから生まれてくる者も他者である。その能力こそ神が、もしくは人類の先祖の魂が授けてくれたものであり、それを追求するプロセスが哲学の学びである。
葬礼という儀式は、我々に他者の存在を確認する時間を付与してくれるし、その意味でも人類の存続にとっては、大切な制度である。死と誕生の間(向こう側)にある瞬時が、ほんの瞬時が人生であると確知できることが人生にとって楽しい、悲しい、愛しい時間である。先人が残した念仏の意味を考え、わからないなどということも感じた上で、念仏の音を声を聞いてみよう。それを伴奏にして死者の全ての欲望を夢、理想、青務を思い起こしそれを順次満たしてゆくと他者に約束してみよう。
「あなたは(五代さん、春馬)これがしたかったんですか?」
「あなたはこう言いたかったんですか?」
と!
内田樹、「昭和のエートス こんな日本でよかったね」から
令和4年10月15日 廣 田 稔