私は、日本語しか話せず、日本列島から出られず、日本食を常食し、生きるためには日本文化の中に居ないと生きた心地がしない。
20世紀の人間の英知から作り上げた国民国家に、今はしがみつくしかないと思っている。
その国民国家を守るには、自らに課された税金はしっかり払おうと決めている。日々税金を支払うために頑張っている。そして、その頑張れることが、自分にとっては幸せな時間なのだと自分に思い込ませるようにしている。
21世紀に入り、グローバル企業、コスモポリタンという言葉に押され国民国家が液状化してきた。世界の構成員が国家であるのに、その国家が崩壊すれば世界も喪失する。
だからと言ってポピュリズムに陥り、トランプ、マリーヌ・ル・ペンに投票できるものではない。国民国家の基礎には、ジョン・ロック、ルソーらの他者を肯定して尊重する気持ち、皆でこの国と団体を守っていくことが個人の幸せに繋がるという考えが存している。
ロシアはジョージアに続きクリミアを武力でもって奪取したが、その時はアメリカのオバマですら批判しなかった。プーチンは、自己保身を第1に考える政治家同様、次の選挙に落ちないように今回もウクライナへ侵入した。広すぎるロシアを守るために、それをたえず防衛せねばならぬという欲望が彼の人格まで変えたようだ。
国家がなすべきではないことは、他人の領地を合併していたずらに勢力の大を誇ろうとすることである(「ロシアについて」司馬遼太郎、文春文庫240頁)。その巨大な領域に見合うだけの大規模な軍隊をもたねばならない。軍隊は国が亡びるまでは、自己膨張していく性格を持つ。自家中毒をおこして、自己をも変質させる。自分が少しでも傷つけられそうになったら原爆のボタンも押しかねない。
この日本においても明治末に変質したことがある。日露戦争でロシアの満州における権益を獲得し、柄にもなく(力もなく)農民国家であるのに植民地をもつことになり、それを守るために陸海軍をもってしまい、軍隊は勿論、政治迄変質した。日本国民は、1905年(明治38年)9月5日に日比谷焼討事件で、戦争に勝ったのだから、もっとロシアから権益を取れと騒いで、第2次世界大戦へとつき進んでいる。
司馬先生は、第2次大戦時の日本人は日本人ではない。歴史の中の日本人は「貧しいながらもおだやかで、どこか貧乏に対してとぼけたところのある民族である」と煽ててくれているが、我々は自己精神が複雑であることを歴史から学び、自らの行く道を悩み、考えるべき時代に直面している。
地道と笑われようとも戦争には反対するべきである。
令和4年6月23日
廣 田 稔