人生は複雑であると言ってしまえば、その指針を追い求めることすら不可能となりそうである。しかし、そこで諦めると人間としての成長はそこで止まってしまう。
親鸞は、自己の中に他者を内在化させる方法(人間の神格化)を弟子に次のように教示した。
「一切の有情(一切衆生)はみなもって世々生々の父母兄弟なり。」
「まづ有縁(自分の息子、娘)を度すべきなり。」
と。
前段では一切有情を救済せよと言いながら、後段では自分の身内を救え、と矛盾したことを弟子に命じた。その理由を考えだそうと努めることこそが学問への第一歩である。
論語の学而の第一の2にも、
「有子曰、其為人也、孝弟而好犯上者、鮮矣。」とある。
有子は、「孝(父母によく仕えること)と弟(兄や年長者によく仕えること)ができている人柄であるなら、目上の人に対して道理に外れたことを好む者はほとんどいない」という意味である。それだと孝が先に立ち仁へ繋がらない。
この事も孝行を果せば仁につながると言っているようである。しかし、有子の真意はそうではない。
親鸞なり有子は、先述のとおり矛盾したことを伝えながら、自己の中に両立しがたいものをそのまま自分の中に受け入れ、悩みなさいと言っているのである。自己の中に他者の声を聴き入れ、むしろ先に取り入れ、悩む生活を日常化することで、初めて人とのコミュニケーションは始まるし、人間として大きく楽しく機嫌よく生きて行けるものである。
そもそも人間も国家も民族も全て複雑であり、元々それらについてアイデンティティの確立を求めることは不可能である。そこでその単純化されたアイデンティティに基づく論説は、どのような美辞麗句を連ねても完全なる絵空事である。
アイデンティティを確立できるものでないと悩み続ける自己を覚知することでしか人間は大人化しないし、国家問題も解決しないものである。
ロシアのプーチンは、国家についての近視眼的なアイデンティティを作出して行動しているから、他者の痛みが理解出来ていないのである。
令和4年5月18日
廣 田 稔