人に自己の価値観、経験則に縛られるな、鳥瞰的な見方をしろと叫んできた。
その助言を出すきっかけは、改めて自己の価値観と言うより倫理観が何であるのかを考えた時から始まっている。
戦後(昭和21年10月12日)生まれの私は、フランス革命以降の自由平等博愛、憲法では基本的人権の尊重とか、日本国憲法上の理念を学ぶ中でしか倫理観は育っていないと思っていた。漢文も満足に読めない。江戸時代の朱子学も過去の遺物のように感じていた。福沢諭吉が前代の封建的身分制とともに儒教思想までも否定した影響を受けた。
第二次世界大戦を起こしたのも日本人であるのに、自分とは無関係であると勝手に思っている。宗教を尋ねるについても、空海、親鸞、イエスについての解説本なり司馬先生達の説明文しか読めていない。その聞きかじりで知ったかぶりを演じている。
民主制と言っても、学校の生徒会、学級会で真似事をしたくらいで、対話討論後の真なる要因的英知を探ることの真意も考えたこともなかった。
しかし、何らの英知も無かったが、父母や先人たちから人を大切にすること、争いごとは良くないこと、そして人を愛することは体得できていた様な気がする。
今、精神的に未発達な自己を取り戻してみようと思い、先人を尋ねてみた。
江戸時代、人の生き方やその意味を考える主要な知は儒学であり、儒学が江戸の日本人の知の作られ方を規定した。儒学とは、四書五経を読むことである。
読むことは、我々が聞いてすぐ分かるような手易な解釈を説法として聴くことではない。それでは、学ぶ人を浅薄な理解に導くからである。言葉に表せないような聖人の深い意図や、身体に滲みこんでくるような深い味わい、深い理解を求める必要がある。
読書に尽きると思われる。
山崎闇斎、伊藤仁斎、荻生徂徠、貝原益軒先生らの悩みを見てもらいたい。(岩波新書「江戸の学びと思想家たち 著・辻本雅史」を推挙したい。)
そこには貝原益軒は、単に四書五経を読むのではなく、天地につかえる思想を求めている。自己を大自然に対する存在ではなく、大自然の内に組み込まれた存在として捉えた。
書経にある「天地は万物の父母、人は万物の霊」を次のように解釈している。
「いのちあるすべてのもの(万物)は、天と地のはたらきによって生み出されている。だから『天地』は万物の大父母(偉大なる父母)にほかならない。ただそのうち人だけが『天地の正気』天地から良質な気を受け与えられた存在であり、そのぶん心が特別にすぐれており、『五常の性』すなわち仁義礼智信の道徳性を備えて生まれついている。だから人は鳥獣虫魚草木あらゆる生き物=『万物』のうちで最も優越した存在にほかならない。加えて、人は天と地の間に身を置き、天地が生み出した万物を食することで養われている。だから人は限りなく『天地の恩』を享受している。」と・・・。
これらの考えは、18世紀「益軒本(和俗童子訓、大和俗訓、家道訓、養生訓)」が日本中で読まれることによって、日本人は学び、身体化している筈である。
そのことが自己の倫理観の基礎となっていることと思いたい。
決して、神が人間に内在していることではない。全て、先人からの教えの賜物である。
江戸の学びは、自然(天)と関わる中で豊かな身体感覚や感性を育て、それを通して他者と繋がっていく知恵に満ちていた。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、・・・・・・・・
令和4年1月29日
廣 田 稔