「前進と上昇」を進歩の例えとしていた経済学は、我々を危険な状況へと追い込んだにもかかわらず、今でも経済発表の指標としてGDPの数字を持ち出している。
GDP(国内総生産)は、1年間で一国内で生産された財とサービスの市場価格で算出される。一国の国民が国内外で生み出した所得に基づく国民総生産(GNP)も同様である。
今は、進歩の定義は「前進と上昇は善」でなく、「均衡が善である」に変える必要がある。つまり、バランスの取れた繁栄へ向かう必要がある。それなくして人類が生き残る可能性はない。(ケイト・ラワースのDoughnut Economicsから)
アダム・スミス、リカードから始まり、ケインズ、サミュエルソン迄の経済学では、国家は国境と市民の私的所有権を守る以外のことは、全て市場に任せるべきだと言われていた。
その考え方は終わった。その考えが該当するのは世界経済のエネルギーと物質の流れが地球の「供給源」と「吸収源」のキャパシティーより小さかった時代だけのことである。
今では国家政府に経済の中で与えられている創造的な役割は幅広く、不可欠である。
無能な政治家が選ばれてはならない。無能な政治家はソクラテスの無知の知を体得し、新知性時代の悪習を断ち切る必要が大である。
中国、ロシア等の強権国家の脅威はまさに現実のものだが、市場主義の危険もやはり現実のものである。米国も強権国家の仲間入りを時々やる。そして日本はそれに追随して軍隊を派遣することがある(アフガンについての中村哲先生のsight vol.10 2002年1月号掲載の中村哲インタビューをお聞き下さい)。
国家と市場の横暴を避けるためには、民主的な政治が欠かせない。従って、一人一人が社会や政治に積極的に参加し、責任を果たせるよう市民参加型の社会を築いていく必要がある、とケイト・ラワースが断言している。
令和3年9月9日日刊人吉新聞掲載
人吉高校17期生 廣 田 稔