とは、孔子の説いた理想的秩序「礼」の姿、理想的道徳「仁」の意義、政治・教育などの具体的意見を述べたものである。
礼とは、それに基づく自己抑制と他者への思いやり、忠と恕の両面を持つといわれている。只、忠恕を大切にと声をかけるだけでは、上下の秩序を支えられないし、万人の平等の実現する相互的な倫理あるいは道徳のある人間形成実現にはおよそ繋がらない。
道徳とは、「神の命令や、孔子の意見に従うこと」ではない。「苦しみを減らすこと」だ。
従って、道徳的に行動するためには、どんな神話も論語も物語も信じる必要はない。苦しみに対する理解を深めさえすればいい。ある行動が自分あるいは他者に無用の苦しみを引き起こすことが理解できれば、その行動を自然に慎むようになる。
(河出書房新社 ユヴァル・ノア・ハラリ著『21Lessons』263頁)
人間は元々、社会的な動物であり、そのため人間の幸福は他者との関係に大きく依存しているということを、歴史を学ぶことで覚知すれば良いのである。
人は神に命令されたからではなく、自分自身のために、怒りをどうにかする気に自然となる。あえて宗教的信仰や朱子学、儒教を持ち出すと、それを知っていたり会得したと思っている人は、それを知らない人や信じない人と、調和でなく対立を生じさせる。
人間は元々社会的な動物であると覚知することが、神が、理性が自己の中に内在していることを覚えることではないかと思っている。
道徳と叡智は、全人類が自分に受け継いできたものだと思っている。これまでの歴史を全人類の立場にたって検証してゆくと、そこで言う倫理規定は真実や思いやり、平等、自由、勇気、責任という概念が出てくる。
真実とは、観察と証拠に基づく科学的真実である。思いやりは自己も含めて人の苦しみを深く理解することから生じる。
平等は、全人類全体についての義務であるから、大前提とされるべきである。
勇気、時には無知も認めて未知の世界へ踏み込んでいくには必要である。
最後の責任は大切である。自分の行動と世界全体に対する責任を引き受けることである。
いずれにしても、私は無謬性を主張する人よりも、無知を認める人を信頼している。
令和3年3月8日
廣 田 稔