この世に生を受けた者は、いずれ必ず死を迎える。自分の命がある限りは、先に死にゆく誰かを見送らねばならず、大切な人の数だけその苦しいまでの喪失感を味わうことになります。
その悲しみを懐かしさへと姿を変え、涙ではなく微笑みで思い出を語る日を迎えるには、親鸞聖人なり清沢満之の考えを辿ることが肝要であると思われます。
2人は直覚的な見神者でなく、哲学的思弁を重ねた上で、法然的世界を知って宗教を跳躍した人であります。
地獄極楽を説いて神を説明したり、浄土真宗を信ずれば死後そこへゆくという様な説き方でなく、「末世の幸福のことは私はまだ実験しないことであるから、ここに陳べることは出来ぬ。」という謙虚さを前提として、ヘーゲルの言う理性と真理を一生かかって自己の中に探し求め、あるいは体現していく必要があります。
その求道のプロセスで己の無力さを知り、死にたくなることもあります。
しかし、その死を意識した時に初めて、神仏の存在の仕方を発見出来るものです。つまり、神仏が存在するから信ずるのではなく、信ずるから神仏が存在するということを、その在り方こそ相対的でなく絶対的な存在の仕方であります。
そのことこそ、自分の中にある神の発見でありましょう。そうしたら、人間の死についても涙ではなく微笑みで思い出を語る日が巡ってきます。
何より限りある命だからこそ、先に旅立った春馬や友厚、父母に心配をかけないよう、毎日を丁寧に生きていこう、と思える日が訪れます。
(大部分、角川春樹事務所の髙田郁「蓮花の契り」のあとがきからの引用です。)
令和3年2月15日 廣田 稔