活動レポート

TOMOATSU GODAI PROJECT

春馬の髷を切った意味

一、人間の成長に必要なのは、「知識」ではなく「知性」である。

知性とは、「自分が何を知らないのか」と言うことができ、必要なデータとスキルが「どこに行って、どの様な手順を踏めば手に入るか」を知っていることである。

そのためには、「自分の位置を知る」には、知識の扉を開き、先行研究批判並びに歴史の検証が必須である。そのプロセスの中で、「私はどこにいるのか?」「私は何者であるのか?」「私は何ができるのか?」という実定的な問いではなく、「私はどこにいないのか?」「私は何者でないのか?」「私は何ができないか?」という一連の否定的な問いをいつもし続ける必要がある。

学校教育とは、本来、その様な否定的な問いを発する訓練のための機会と場である。

自分が「何を知らず、何ができないのか」を正しく把握し、それらを言葉にし、それを「得る」ことのできる機会と条件について学び知ることが学校教育である。(角川文庫 「おじさん」的思考 内田樹著 172~176頁)

歴史の検証をする際、歴史学者は証拠、特に文字によるそれを求めすぎている嫌いがある。人間の感情なり認識の成り立ちの具体化についてのプロセス、哲学的検証を経た人でないと、証拠評価能力もないし、歴史家、教育者となる資格がない。少なくとも、「私は何かできないか?」についての覚知が無い人は教育者とはなりえない。歴史を物語として伝承する必要があるのに、日本の歴史教科書にはそれが完成していない。

全て、己の価値判断能力が相対的なものであることまで覚知しない限り、その人の意見は、人の子供たちの具体的行動指針とはなりえない。

二、五代さんの歴史を考えるに際しては、

㋑ 万国公法が18世紀末のベンサムの国際法であり、リチャード・ズーチの「諸国民間の法規」、ブロティウスの法的遺産から生来していること

㋺ 日の丸を戊辰戦争で掲げて戦ったのは朝廷側でなく旧幕府軍であり、幕府の遣米使節の護衛戦艦の咸臨丸に日の丸を掲げていたこと

㋩ 河合継之助が1868年、北陸に兵を進めてきた新政府軍に対し、万国公法にある局外中立策を引用し、長岡藩の中立嘆願書を出したこと

㋥ 坂本龍馬が「いろは丸」事件で万国公法違反と言い立てて、紀州藩から8万3千両(約35億円)の大金の賠償金をせしめたこと等をふまえて、鹿鳴館のダンス、渋沢の東京商法会議所設立の意味も考え直す必要がある。

そして、その当時ただヨーロッパでは悪をくぐり抜けて、やむなく作った戦いのルールの1つである万国公法を、日本では最初から善として、目標として受け止めたという日本人の単純さが、次の大東亜戦争の敗北につながるのである。

三、万国公法、やむなく作ったルールを基に、今の裁判制度も出来ている。その法制度の充実が、資本主義を支えている。

しかし、我々日本人には相身互い、互譲の精神はあったが、裁きの発想はもともとなかった。国民の上に法廷を設けて、それによってルールを決め裁くという発想は、すぐれて西洋的なキリスト教的な「審判」の思想に基づくのである。

審判は、キリスト教で神がこの世を裁くことである。フランスは「下からの市民革命」を経験したと言われるが、その後テルミドールの反動とナポレオンの独裁を生み、2月革命はナポレオン3世の台頭を招いた。

四、明治維新は、西洋諸国で起こった革命と様相を異にし、中国・朝鮮とも異なる武士達が学び育んだ倫理観の基に、果敢な自己変革を行ない、内発的にやってくれた体制変革である。

フランス革命の死者は200万人、戊辰戦争の死者は約3万人である。同時代の中国では、帰国留学生は排斥されている。

明治2年(1869年)の版籍奉還、同4年の廃藩置県、同6年の徴兵令、同9年の廃刀令の公布、武士階級が自らの意思で、自らの階級的特権を放棄したのである。

「五代友厚が三浦春馬の髷を切った意味」は何であろうか?

それは、わが身ひとつで武士の矜持を捨てることなく町人・農民と平等の資格において、学問の場に、あるいは工業技術、企業経営の場に敢然と乗り出したのである。

それが日本の近代化、世界に類を見ない独自の英知と同義のもとに革命を為し遂げたのである。

五代、三菱、安田、大倉、渋沢らを政商と蔑むことは、歴史をマルクス主義者の如く解釈しようとする学者の根本的な誤りである。

今一度、「武士階級の自己否定のモラル」の趣旨と限界について論議されるべき時である。町人・農民もそれを理解して従ったのである。

日本には藩校と寺子屋の教育があったから、近代産業国家への転換を迅速に果せたのである。

藩校(五代は造士館を出ている)は、従来の儒学中心から経済実用の学を重んずるようになっていた。男女共学の寺子屋が日本の民主制平等観念を育んでいた(五代豊子の父は寺子屋を開いていた)。

江戸末期、日本には教育を受ける習慣と欲求が存在していた。友厚は上級武士であり、彼が自己の階級的利益特権を棄てて、前近代的身分秩序を自らの手でなくそうとした点が、大久保利通、西郷隆盛とは少しだけではあるが異なっている。

明治18年、森有礼が初代文部大臣となった。教育は国家のためにではなく、個人のために必要だと言ってしまった。それがその後教育を競争と結びつける契機となった。それが現代の「平等」と「効率」の二律背反の問題を生むことになるのである。

令和3年1月3日   廣田 稔

「五代友厚(仮題)」映画製作委員会

  • 製作者:廣田 稔  製作委員会プロデューサー:鈴木 トシ子
  • 映画製作委員会:五代友厚プロジェクト、鹿児島テレビ放送、奈良新聞社、クリエイターズユニオン、廣田稔法律事務所
  • 出資者:製作委員(個人、団体多数
  • 製作会社:クリエイターズユニオン
  • 後援:大阪商工会議所、鹿児島商工会議所、大阪天満宮、公益財団法人 大阪観光局(予定)