映画は集合体としての「フィルムメーカー」による集団的創造の産物である。映画は作者なき間テキストである、つまり映画は、文化の無数の発信地から送り届けられる引用の織物である。
監督を神として唯一のメッセージを語られるものではない。製作に関わる全てのスタッフ・キャストのそれぞれが何らかの欲望を抱き何らかの夢を託して映画の創造に立ち会っているのである。
映画は観客や批評家の主体的な「読み込みを」をも構成要素として存在しており、映画のうちに進んで意味を書き加える観客の賛与があってこそ映画を媒介としたコミュニケーションは成立しているのである。(文春文庫の映画の構造分析内田樹からの引用)
また私たちの中の「解釈したい」という欲望に点火させるのは一義的なものではなく様々な断片、奇妙な抵抗感もその役を担っている。
意味は無意味なものに媒介されて深みを獲得していくのである。
今回の脚本家の小松江里子は「何もないところにはなにもない」という事実から物語を起動させている。何か原因があって物語が動きだすのではなく何かがうまくいかないときだけ物語は語られ始めるのである。
それらが私達を終わりのない創造や取り止めもない思弁にいざなってくれるのである。
是非、五代友厚像や三浦春馬が目指した人生を皆様の知性と想像力で解釈されたい。
令和2年12月30日
五代友厚映画製作委員会会長 廣田稔