今、私たちが直面している最大の危険はウイルスではなく、人類が内に抱えた魔物たち、すなわち憎悪と強欲と無知だ。(ハラりのパンデミックの序文から引用)
それに対し思いやりや気前の良さ叡智(般若、超越的智)を生み出すような生き方を推奨するために、五代友厚の人生検証を選択した。
今回映画完成を迎え、1970・11・25自裁した三島由紀夫を思い出した。私が24才の時の事である。有名人で金も稼げる人の自裁は全く理解できなかった。
映画といえば吉田大八監督が、三島の「美しい星」を原作にして地球温暖化の恐怖を描いた。エネルギー問題は地域間の奪い合いであると同時に時間的な対立をはらんだ世代間の問題であるととらえている。
三島の自裁とその映画が何故我々の心を打つのか?吉田氏は「それは三島が人間の生の無意味から目をそらさず無意味に懸けるからでしょう。」と言われる。
桂星子は「意味を見出せないから委縮するのではなく無意味だからこそ行動する。その一瞬に美が立ち上がる。現代社会では意味のあるなしが問題になり効率優先で切って捨てようとするが、それを突き詰めていけば人間を疎外することを三島はわかっていた。」と言われている。(令和2年10月22日の文化欄から引用)
果たして三島は無意味に懸けて自裁したのであろうか?現代社会が何事にも効率優先で単純に何らの価値基準をもたず善悪を決める事を知り疎外感を持って自裁したのか?
三島は他者に存する人間の持つ欠点が自己にも内在することを十分確知したうえで日本のあるべき姿を提示した、それが自分の生き方と思った筈である。
一方三浦春馬においては北海道の「江差追分記念碑」の前で「もう十分。(私は)幸せだよ。」と言いながら鐘を大きく一つ鳴らしている。
そして2019年秋五代友厚に出会い自分の意識の変化を実感しどういう事で社会貢献をしていけるだろうかと悩んでいた。
二人の自裁を無意味に懸けたと解釈するには賛同しにくい。
人生、人間の生は元来無意味であることから出発しそれ以外のものではないと神仏は古くから言っている。また神はその人間に内在するともいわれる。神が人間に内在することも神仏の教えも人間が創作した仮説であるともいわれる。
いずれにしても神を知るには相当なる修行や勉学が必要である。生死をこの世で意識する事は難しい。
人は一度しか死ねない。
人間の意志と経験が(人生の)意味の至高の源泉であると信じてはならない。
令和2年11月7日
五代友厚映画製作委員会会長 廣田 稔