科学的な歴史検証を経ている人類学的知見からすれば、弔いの儀式(宗教)は国家の要素である。
ポストグローバリズムの世界を描くには、憲法(含む明治憲法)の生成過程の検証とともに国家の本質が改めて論議認識されなければならない。国家とは何か?グローバリズムとは何か?という基本的な点が論議されるべきである。
日本国憲法が、国民に民主制という名の元に保証している権利、自由がどの様に育み言語化されたかについての歴史的検証は、人間が倫理性と普遍性を持つためには必須のことである。個人の権利、自由は他者の存在を内蔵するものである。
個人の実存は他者との相対的関係と認識することによってしか成立しえない。
憲法に表示される人権は、人間が生まれながらに持っている生来の自然権であると言われるが、果たしてそうであろうか?我らの先人が多大なる犠牲のもとでようやく勝ち取ったものである。
五代友厚は、当時それを愁えていた。その人権を主張するには、先人の人間の英知を学び、そこに含まれている倫理性を日々の生活の中で、確知し続けることが絶対な条件である。
人権とか自由とか概念だけで当然自分のものという思い違いをする人がこれ以上増えると人間の集団、国家が続くことは不可能である。
葬儀を執り行う動物は人間だけである。「人間は死者とコミュニケーションが出来る」という信憑そして先人の英知を体得する糸口に神の力を借りて立つことである。そして死者(五代友厚)について、その誕生前から死に至るまで友厚の無意識の中にまで入り込んで、友厚が継承した先人の英知と、その上で目標とした行為規範を我々がまた敬承していくことが必須である。
そういう英知の継承の無かった人類の集団や国家は瞬く間に消滅していくことを、歴史が証明している。
我々もこの際、五代の人生検証を行い、先人の英知をゲット出来る楽しさを共に体験しよう。
五代友厚プロジェクト 代表 廣田 稔