五代友厚を理解することは、まずは五代の生きた時代における社会的感受性や身体感覚を把握する必要がある。
その上で、五代の生きた経験を内側から生きてみることが肝要であろう。
その事ができるためには、緻密で徹底的な資料的基礎づけの努力をした上での、大胆な想像力と伸びやかな知性を持つ必要がある。
伸びやかな知性はどうしたら出来るか?
それは、つねに「私は何を知っているか」ではなく「私は何を知らないか」を起点でしか開始しない。「知らない問い」時間とは何か、死とは何か、性とは何か、共同体とは何か、紙幣とは何か、欲望とは何か、国民国家とは何か、グローバリズムとは何か・・・といった根源的な人間的な問いを常に抱え死に至るまで悩まない限り大人として評価される知性を我々人間は得ることは出来ない。
我々は、人間主義とか、人権尊重という考えを頭に思い起こす時、自己を歴史の中心に置いている。歴史は過去から現在に流れており世界の中心は「ここ」であり、世界を生き経験し、解釈し、その意味を決定する最級的な者(審級)は他ならぬ「私」であると考えている。それでは学術的アプローチは不可能である。
だから社会史のミシェル・フーコー(1926~84)は、「いま、ここ、私」を「カッコに入れて」歴史事象そのものにまっすぐ向き合うという知的禁欲を自らに課すようにと教示してくれている。
歴史的事象にまっすぐ向き合うにはその出来事の生成したその時にまで遡って考察する必要がある。その考察の方法は、これ迄歴史家がおよそ立てなかった問い「知らないことへの問いかけ」をやってみることである。そこで今回の五代友厚の登場である。
五代友厚は何をした人であるか?神戸事件の出来事は何であるかを探る事ではなく「五代友厚、神戸事件はどのように語られずにきたか?」「なぜ五代らは選択的に抑圧され、黙秘され隠蔽されるのか、一方なぜ東の渋沢栄一は壱萬円札に乗り記述されてきたのか」について考えてみる必要が大である。非常に歴史の勉強が面白くなる筈である。
それを起点として、はじめて内田樹とフーコーが推奨するのびやかな知性へ向かう方向性が出来るのではないかと期待している。若者よ歴史の学び方を五代友厚より始められたい!